過不足のあいだ、という答え

中庸とは、感情や行為の過剰と不足のあいだにある中間を選び取る、性格の卓越性です。アリストテレスは『ニコマコス倫理学』第2巻でこう定義しています。徳とは、私たちとの関係における中間を選ぶ性格の状態であり、その中間は理性によって、思慮ある人が定めるであろう仕方で定められる(大意)。

この概念が答えようとした問いは、素朴で、しかも手強いものでした。よい行いとは何かを、規則集なしにどう見分ければいいのか、という問いです。怒ってよい場面はあります。恐れるべきものもあります。感情そのものは悪ではない、というのがアリストテレスの出発点でした。では、感情と行為の「よさ」はどこで決まるのでしょうか。禁止のリストでもなく、どんな場合にも効く公式でもなく、その場その場で適切さを見きわめる力に、彼は徳という名前を与えました。その中身が、中庸です。

『ニコマコス倫理学』第2巻の冒頭近くで、アリストテレスはこうも断っています。行為についての議論に、数学のような厳密さは求められない(大意)。倫理の問いは、定理を証明する種類の問いではありません。航海や医術のように、その場の判断がものを言う種類の問いだ、という見立てです。中庸は、この見立ての上に置かれた答えでした。

骨格を言葉でなぞる

この概念には、定番の図解を付けません。代わりに、骨格を言葉でなぞっておきます。

水平にのびる一本の軸を思い浮かべてください。片端に「不足」、もう片端に「過剰」。中庸はそのあいだのどこかにあります。『ニコマコス倫理学』第2巻が挙げる例でいえば、勇気は無謀と臆病のあいだ、節制は放埒と無感覚のあいだ、気前よさは放漫と吝嗇のあいだです。悪徳はふたつあって、徳はひとつ。過ぎても足りなくても外れる、という構図です。

ただし、この軸には大事な但し書きが付きます。中間の位置は、軸のちょうど真ん中に固定されていません。アリストテレスは「事柄そのものにおける中間」と「われわれとの関係における中間」を区別して、徳が狙うのは後者だと述べています。食事の適量が競技者と初心者とで違うように、適切な点は、行為する人と状況によって動きます。中庸は固定された目盛りではなく、状況ごとに測りなおす基準点です。

さらに、軸そのものが引けない領域もあります。『ニコマコス倫理学』第2巻は、妬みのような感情や窃盗のような行為は、それ自体のうちに悪を含んでいて、ほどほどにやればいいというものではない、と明言しています(大意)。中庸は、なんにでも中間を認める相対主義ではありません。

「真ん中を取る」ことではない

よくあるざっくりした理解は、こうです。中庸とは極端を避けて、無難な真ん中を取ること。両論があればあいだを取り、迷ったら動かない、穏当で角の立たない態度。

この理解には理由があります。日本語の「中庸」は、儒教の古典の題名としても長く使われてきた言葉です。アリストテレスの用語の訳語に使われると、別の伝統のイメージが混ざりやすい。加えて「中」という字が、算術平均のような固定点を連想させます。平均という言葉が実感とずれる場面は、統計の世界でも珍しくありません。真ん中がどこにあるかは、それ自体がひとつの問題です。

でも『ニコマコス倫理学』第2巻の中庸は、無難の別名ではありません。まず、さきほど見たとおり中間は相対的で、状況が求めるなら、強く怒ることこそが中庸でありえます。怒るべき場面で怒らないのは、寛容ではなく、不足という外れ方です。また、アリストテレスは、中庸が両端のそれぞれから見れば反対側の端に見える、とも指摘しています。勇気ある人は、臆病な人の目には無謀に映り、無謀な人の目には臆病に映る(大意)。つまり中庸を選ぶことは、しばしば誰かの目に「極端」と映る選択を引き受けることでもあります。足して割った答えは誰の目にも穏当に見えますが、中庸はそうとは限りません。

アリストテレス自身、中間を射当てるのは難しいと認めています。『ニコマコス倫理学』第2巻の終わり近くで彼が与える助言は、より悪いほうの端から遠ざかれ、自分が流されやすい方向の逆へ自分を引き戻せ、というものです(大意)。真ん中に立てば安全、という話ではありません。自分の癖を知って、それを差し引いて狙いを定めよ、という助言です。

会議室での中庸

現代の場面をひとつだけ挙げます。例えば、仕事で同僚の提案に懸念があったとします。指摘するか、黙るか。

言いすぎれば場を壊しますし、黙れば問題を先送りにするだけです。ここで「真ん中を取る」発想だと、あいまいな指摘や遠回しのひとことに落ち着きがちです。でも中庸の観点が変えるのは、答えではなく、問いの立て方です。言うか言わないか、ではありません。誰に、いつ、何のために、どんな言い方で言うか、です。『ニコマコス倫理学』第2巻には、しかるべき時に、しかるべき事柄について、しかるべき人々に対して、しかるべき目的のために、しかるべき仕方で、という条件の列挙があります(大意)。中庸とは、この条件をぜんぶ満たす一点を、その都度、状況の中で探り当てるはたらきに近いものです。

だからこそ徳は、生まれつきの資質ではなく習慣によって身につく、ともアリストテレスは述べています。適切な点は、事前の計算では出せません。実践を重ねるなかでしか見えてこないものです。外した経験もまた、自分の外し方を知るための材料になります。

中庸という概念で見ると、「穏当な人」と「適切な人」の違いが見えてきます。前者はいつも同じ場所に立つ。後者は、場面ごとに立つ場所を選びなおす。どちらの立ち方でこの軸の上を生きるか。それは、アリストテレスが開いたまま残した問いです。