定義に、まず答える
「我思う故に我あり」とは、デカルトが『方法序説』第4部で示した哲学の第一原理です。あらゆるものを疑ってもなお疑えない最初の確実性として、「疑い、考えているあいだの私は存在する」ということを立てた命題です。自己肯定の標語でも、思考力の賛美でもありません。学問の全体を据え直すための、土台の宣言です。
この命題が答えようとした問いは、はっきりしています。確実な知は、どこから始められるのか。
デカルトが生きた十七世紀前半のヨーロッパでは、宗教改革のあとで権威が割れ、新旧の学問がぶつかるなかで古代の懐疑論が読み直され、「人間に確実な知はそもそも可能なのか」という疑いが知識人のあいだに広がっていたとされています。デカルトの企てが独特だったのは、この懐疑を正面から退けるのではなく、いったん最後まで走らせることで乗り越えようとした点です。疑いを敵ではなく、道具として使ったわけです。
デカルトの見立てでは、当時の学問は疑わしい前提の上に建っていました。感覚はときどき私たちをだまします。計算もときどき間違えます。夢の中でさえ、私たちは目の前の光景を現実だと信じています。土台が揺らいでいるなら、その上に何を積んでも確実にはなりません。そこで彼は逆向きの手順を取りました。少しでも疑えるものは、いったん全部「偽」とみなす。それでも残るものがあれば、それだけを最初の一点として採用する。『方法序説』第4部で語られるこの手続きは、方法的懐疑と呼ばれます。
疑いの範囲は、かなり広いものです。感覚が伝える外の世界は、錯覚かもしれない。自分の身体でさえ、夢の中の映像かもしれない。数学の推論だって、間違える人がいる以上、絶対とは言い切れない。こうして世界のほとんどが「確実ではないもの」の側に置かれていきます。ところが、そうやってすべてを偽と考えようと努めている、まさにそのあいだも、そう考えている私は何ものかでなければなりません。存在しないものは、疑うことすらできないからです。
デカルトは『方法序説』第4部で、「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理は、懐疑論者のどんな途方もない想定でも揺るがせないほど堅固であり、自分が探し求めていた哲学の第一原理として受け取ってよい、と結論しています(大意)。疑いを最後までやり切ったら、疑う働きそのものが残った。そういう話です。
図解でよむ
図の構図は、上から下への選別です。上の段には疑いにかけられるもの、つまり感覚がとらえる世界、自分の身体、推論の結果が並びます。「疑えるか」という問いをくぐるたびに、一段ずつ確実性の候補から外れていきます。全部の候補が外れたあと、いちばん下に残るのは、対象の側の何かではありません。疑うという働きそのもの、つまり「考えている私」です。落とすための懐疑が、落ちない一点を残す。この反転が命題の核心です。
「考えるから存在する」という誤解
よくあるざっくりした理解に、この命題を因果関係として読むものがあります。考えることが原因になって、存在という結果が生まれる、という読み方です。ここからは「じゃあ考えない者は存在しないのか」という反発も出てきます。
実はこの誤解には理由があります。「故に」という訳語が、原因と結果をつなぐ言葉に見えるからです。日常語の「故に」は、たいてい因果を運びます。だからこの読み方は自然な入口であって、笑われるようなものではありません。
ただ、デカルトが言っているのは、思考が存在を作り出す、ということではありません。疑っている最中の私にとって、自分が存在することだけは疑いようがない。そういう認識の順序の話です。存在しない者は、そもそも疑うという活動ができません。だから、疑いが現に行われている以上、疑っている私はある。ここでつながっているのは原因と結果ではなく、確実性の順番です。何をいちばん最初に確実だと言えるか。その一番手が「考えている私」だった、ということです。
二点だけ、整理しておきます。第一に、この命題は「考えるものはすべて存在する。私は考える。だから私は存在する」という三段論法の推論ではなく、疑いのただなかで直接つかみとられる明証だ、と読まれてきました。推論だとすると、大前提がまた疑いの対象になってしまいます。この確実性はそれより手前の場所で成り立っている、という解釈です。あわせて、ここでの「考える」は高度な思索に限りません。疑う、感じる、意志するといった意識の働き全般を広く指すものとして読まれてきました。
第二に、この命題が保証する範囲は狭い、という点です。確実になったのは「考えているあいだの私」だけで、私の身体や目の前の世界があることは、この時点ではまだ保証されていません。デカルト自身、『方法序説』第4部で、この私の本質は考えることにあり、それはどんな物体的なものにも依存しない、と続けています。「我あり」は世界全体の存在証明ではなく、最小の、でも揺るがない一点です。
疑いは放棄ではなく、点検である
仕事の場面に、ひとつだけつないでみます。企画会議やレビューで「前提をゼロから疑え」と言われることがあります。でも、疑うこと自体が目的になると、議論はどこにも進みません。全部が保留のまま、判断だけが遅れていきます。逆に、疑いをまったく通さなければ、怪しい前提の上に計画が積み上がっていきます。
デカルトの懐疑は、この両極のどちらとも違います。彼の疑いは壊すためではなく、土台を探すための一時的な手続きでした。方法的懐疑は、測定を始める前に測定器のゼロ点を合わせ直す作業に似ています。疑いは器具の点検であって、測定をやめることではありません。点検が済んだら、そこから積み直しが始まります。
以前、この連載では「無知の知」を取り上げました。ソクラテスが「自分の知の限界を自覚すること」を問いの始点に置いたのに対して、デカルトは「疑いの果てに残る自己」を知の始点に置きました。二千年を隔てたふたりが、どちらも「確実に知っていると言えるのは何か」という同じ形の問いから出発しています。この問いは、まだ古びていません。
最後に、この概念を今に引きつけてみます。もっともらしい文章や画像が機械からも届き、情報の真偽が揺らぐ時代でも、「いま疑い、考えている」という働きの現場だけは、疑いの外側に残ります。そこを起点に、何を、どの順で確かめ直すか。デカルトが渡してくれたのは、出来上がった答えではなく、確実性を積み直すときの最初の一点です。
すべてが疑わしく見えるとき、戻れる一点をどこに置くか。デカルトの答えは、たくさんある候補のひとつにすぎません。それでも、候補をひとつ持っているのと持っていないのとでは、静かな差があるのではないでしょうか。