序 ひとりで暮らすことと、ひとりであること
夜、灯りのついた集合住宅を見上げます。窓の数だけ世帯があり、そのいくつかの奥では、人がひとりで夕食をとっています。この光景を「孤独が広がっている」と読むのか、「ひとりで暮らせる社会になった」と読むのか。同じ窓を見て、正反対の物語が語られてきました。
「孤独」は近年、政策の言葉になりました。孤独・孤立への対策が政府の課題として掲げられ、報道はしばしば単身世帯の増加を、孤独が広がったことの証拠として引きます。ただ、ここには測定上の飛躍があります。世帯の統計が数えているのは「誰と住んでいるか」であって、「誰かとつながっているか」「寂しいと感じているか」ではありません。数えたものと語られるものの間に、確かめられていない距離があります。
一方、哲学の側には、孤独をむしろ擁護したと伝えられる思想家がいます。生は苦であると診断したことで知られるショーペンハウアーです。世界を最も暗く見たと言われる哲学者が、ひとりでいることを擁護した。この取り合わせは奇妙に見えますが、その奇妙さのなかに、孤独という言葉の多義性がそのまま含まれています。
本稿では、単独世帯の割合、1世帯当たり人員、そして通称「生涯未婚率」という三つの統計系列と、ペシミズムという一つの世界観を突き合わせます。問いはひとつです。ひとりで暮らす人が増えたという事実は、孤独が増えたという主張の根拠になるのでしょうか。
壱 生は苦である——ペシミズムの骨格と、孤独の側に立った哲学者
ショーペンハウアーの名前は、しばしば「悲観的な性格の代名詞」として消費されます。けれどもペシミズムは気分の記述ではなく、世界の構造についての主張です。この世界は考えうる最善のものではなく、生はその根本において苦しみである——そう診断する世界観として、彼の哲学は読まれてきました。
骨格はこうです。世界の根底には、目的も理由もなく、ただ盲目的に欲し続ける「意志」がある。人間の生はその現れであり、だから生きることは欲することと切り離せない。欲するとは欠乏を感じることであり、欠乏は苦である。欲求が満たされれば苦は消えるかに見えて、充足の先に待つのは退屈で、退屈はまた新しい欲求を呼び込む。欲求、充足、退屈。この循環に出口はない——彼の体系は、おおむねこのような診断として解釈されてきました。
ここで注意したい誤解が二つあります。第一に、ペシミズムを「ネガティブ思考」と同一視することです。彼の主張は「私は悲しい」ではなく「世界はこのように出来ている」であり、命題の水準がちがいます。前者は気質の告白、後者は反論も検証も受け付ける診断です。この区別については既報「ペシミズムとは——性格ではなく世界の診断」に詳しく書きました。第二に、診断だけを読んで処方を読まないことです。彼の体系には、他者の苦への同情を倫理の基礎に置く議論や、芸術の観照による一時的な解放の議論が含まれており、そこまで含めて読まないと一面的になるとされています。暗い診断の書としてだけ読むのは、半分しか読んでいないことになります。
さて、孤独です。生を苦と見たこの哲学者は、孤独については意外な側に立ったと伝えられています。社交とは互いの妥協であり、人は他人といるとき自分の一部を手放している。精神の自由はひとりでいるときにしか完全にならない——こうした趣旨の言葉が、彼のものとしてよく紹介されます。孤独に耐えられるかどうかがその人の内的な豊かさの尺度だ、という警句や、寒さに凍える二匹の生き物が、近づけば棘で刺し合い、離れれば凍える、という寓話も、彼に結びつけて語られることの多いものです。人と人との適切な距離は、密着ではなく節度ある隔たりにある、という含意で受け取られてきました。ただし断っておくと、これらの言葉や寓話が彼自身の著作にどう書かれているかを、本稿で原典に当たって確かめたわけではありません。あくまで「彼のものとして流通している言葉」として扱います。
この孤独の擁護を、体系と地続きに読むこともできます。苦の源泉が欲望と、欲望どうしの摩擦にあるのなら、社交はその摩擦を絶えず補給される場です。他人に囲まれることは、比較を、嫉妬を、承認への渇きを供給され続ける状態にほかなりません。ならばひとりでいることは、苦の追加供給を断つ選択である——孤独は罰ではなく、静けさの確保だ、と。ただしこれは、流通する警句を彼の診断につなぎ直した一つの読み筋であって、彼自身の論証として確かめられたものではありません。
限界も書き添えておきます。第一に、伝えられる孤独の擁護は「孤独に耐えうる者」を暗黙の前提としているように見え、選ばれた孤独と強いられた孤独を同じ言葉で扱っていない、という批判が可能です。第二に、彼の体系はカントの認識論の独自解釈に強く依存しており、その前提の当否は別問題として残ります。第三に、彼が生きた十九世紀の欧州で、ひとりで暮らすことは今日の日本のような規模の現象ではありませんでした。彼が擁護したとされる孤独と、統計が数える単身とは、そもそも同じ現象なのか。この問いを持って、数字の側へ移ります。
弐 数字の現在地——世帯は縮み、単身は増え、未婚は積み上がった
まず、ひとりで暮らす世帯の割合から見ます。
総務省統計局「国勢調査」によれば、一般世帯に占める単独世帯の割合は、比較可能な新分類での最初の調査時点である1995年に25.6%でした。およそ四世帯に一世帯です。それが2020年には38.1%と、四割弱に届く水準に達しました。四半世紀で12.5ポイントの上昇で、この間、割合が下がった調査時点は一度もありません。方向は一貫して増加です。この系列の詳しい読み解きは既報「単身世帯の割合、四人に一人から四割弱へ」にあります。
視野を広げると、世帯そのものが縮んできたことがわかります。1世帯当たり人員(一般世帯)は、1960年の4.14人から、2020年には2.21人へ下がりました。六十年でおよそ半分になった計算です。方向は一貫して減少で、上向きに転じた調査時点はありません。平均という物差しの限界はあるにせよ、住まいの単位が小さくなり続けたことは動きません。
三つ目の系列は、通称「生涯未婚率」です。ただ、この通称には注意がいります。統計上の正式な姿は「50歳時の未婚割合」で、国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」の脚注によれば、45〜49歳と50〜54歳における未婚割合の平均値として国勢調査から算出されます。50歳までに一度も結婚したことのない人の割合、と読むのが正確で、その後の人生を予言する数字ではありません。
男性の値は、記録の始まる1920年に2.17%、底は1960年の1.26%です。百人のうち一人か二人しか50歳時の未婚がいない、いわゆる「皆婚」の時代がここにあります。そこから六十年で様相は変わりました。2000年に12.57%、2010年に20.14%と、この区間の伸びが調査時点間では最大で、最新の2020年には28.25%、三割近くに達しました。記録の始点と比べれば13.02倍にあたります。
女性も方向は同じです。底は1950年の1.35%、最新の2020年は17.81%で、二割弱に達します。水準は男性より低いものの、上昇という方向は共有しています。系列全体の吟味は既報「生涯未婚率の推移 「皆婚」の底は戦後にあった」にまとめています。
なお、いずれの系列も国勢調査の調査時点の値で、点と点のあいだの年の値を含みません。未婚割合は長らく十年おきの時点しかなく、グラフの線は便宜です。傾向の連続的な記録というより、時点間の比較として読むのが正確です。
三つの系列を並べると、輪郭は明瞭です。世帯は小さくなり、ひとり暮らしの世帯は増え、50歳時点で結婚経験のない人の割合は上がった。「ひとりで暮らす」という状態が、統計的な例外から、ありふれた形のひとつへと移った——ここまでは、数字が支える言明です。問題は、この先へ一歩を踏み出すときに起きます。
参 交差——世帯の統計は、孤独の統計ではない
ここからが本稿の本体です。「単身世帯が四割弱」「50歳時の未婚が男性で三割近く」という数字は、報道や政策文書のなかで、しばしば「孤独の広がり」の証拠として引かれます。この読み替えには、少なくとも三つの段差があります。
第一の段差は、測っているものの違いです。世帯統計が数えているのは「誰と住んでいるか」、未婚割合が数えているのは「結婚したことがあるか」。どちらも客観的な状態の記録であって、寂しさという主観の記録ではありません。ひとりで暮らしながら、友人と職場と趣味の縁に囲まれている人がいます。家族と同居しながら、誰とも言葉を交わさない一日を送る人がいます。英語圏の研究では、物理的にひとりでいることと、つながりの欠如を苦痛として感じることを別の概念として区別するのが通例ですが、日本語の「孤独」はこの両方を一語で覆ってしまいます。世帯統計が捕捉できるのは、前者の条件の一部にすぎません。世帯統計は孤独の体温計ではない。測っているのは住まいの単位であって、心の温度ではありません。
第二の段差は、選択と強制の区別が数字に写らないことです。単独世帯の増加には、進学や就職に伴う若年の自立、配偶者と死別した高齢者の独居、離別、そして結婚しないという選択が、すべて合算されています。50歳時の未婚にも、結婚を望まなかった人と、望んだが叶わなかった人が、区別なく含まれます。「望まない孤独」を政策の対象にする、という近年の言い方は、まさにこの区別を必要としているのですが、その線を引ける変数は、ここで見たどの系列にも存在しません。
第三の段差は、評価の符号です。仮に「ひとりでいる状態が増えた」ことまでは認めるとしても、それを悪化と読むかどうかは、データの外側の判断です。そしてこの点で、先ほど見た「彼のものとして流通する孤独の擁護」を、試しにそのまま延長してみると、通説とは反対の絵が現れます。
見えるのはむしろ「孤独が選べるようになった社会」です。男性の未婚割合が1.26%まで下がった1960年前後の日本は、ほぼ全員がいずれ結婚する社会でした。裏返せば、ひとりで生きるという道が、制度的にも経済的にもほとんど開かれていなかった社会でもあります。結婚と同居が事実上の標準であった時代、孤独は選択ではなく逸脱でした。孤独を精神の自由の条件として擁護する立場から見れば、単身世帯が四割弱に達した現在は、嘆くべき荒廃ではなく、ようやく可能になった選択と映る——流通する擁護をそのまま延長すれば、そういう読みになります。ただしこれは、彼自身の言葉として確かめられた論証ではなく、あくまで思考実験としての延長です。
そして、この延長には無理があります。二つ挙げます。
ひとつは、先に述べたとおり、伝えられる擁護が前提としているのは「耐えうる者が選んだ孤独」であって、統計上の単身がその条件を満たすとは限らないことです。選ばれた孤独と強いられた孤独を統計が区別できないのと同じように、流通する警句もまた、この区別を実践的に引く手続きを与えてはいません。思想と統計は、奇妙にも同じ場所に盲点を持っています。
もうひとつは、彼のペシミズムの核心からすれば、世帯構成の変化は苦の総量を変えない、という帰結になりそうなことです。欲求と退屈の循環が生の構造そのものであるなら、ひとりで暮らしても、四人で暮らしても、人は苦しむ。形が変わるだけです。つまり彼の体系は、「単身世帯の増加は孤独すなわち苦の増加である」という通俗の読みを支持しないのと同じ強さで、「単身世帯の増加は自由の拡大である」という楽観も支持しません。ペシミズムは、世帯統計から幸不幸そのものを読み取ろうとする試みを、根本のところで退けます。
それでも、数字と思想を突き合わせた甲斐はあります。両者のズレから、ひとつの言葉の混線が見えるからです。「孤独」という語で、私たちは少なくとも三つの異なるものを呼んでいます。ひとりで住むという世帯の形。つながりの欠如という関係の状態。寂しさという感情。統計が増加を示したのは第一のものだけで、ショーペンハウアーのものとして流通する擁護が語っているのは、そのどれとも少しずつ違う、精神の独立としての孤独です。「孤独が増えた」という文は、これらの間を無自覚に滑り移ることで成立しています。私たちが測りたかったのは、この滑りの幅です。
結 問いを読者の手に返す
孤独は悪か。統計はこの問いに答えません。答えないことを確認するために、三つの系列を見てきたのだとも言えます。数字が言えるのは、ひとりで暮らすことが例外でなくなった、という条件の変化までです。その条件の下で人がどう感じ、どう生きているかは、別の測定と、別の思考を要します。
ショーペンハウアーも、この問いに単純には答えていません。孤独を擁護したと伝えられる彼の言葉は、生そのものを苦と見る診断と切り離しては読みにくいものです。孤独が善いから薦めたというより、社交の側の苦を重く見たから薦めた——そう読む解釈も紹介されますが、これも流通する言葉の上に立てた読みにとどまります。少なくとも、その擁護を反転した楽観として読むことは、ペシミズムの骨格とは折り合いません。
確かなことがひとつあります。「単身世帯の増加」を「孤独の蔓延」と言い換えた瞬間、私たちは測っていないものを測ったことにしてしまう、ということです。そしてその言い換えは、ひとりで暮らす世帯の人々に、本人の自己理解とは無関係に「孤独な人」という札を貼ります。孤独を問題として語る言葉が、孤独ではなかったはずの人を孤独の側に数え入れていく。この転倒は、統計の誤読が生む実害のひとつです。逆もまた言えます。世帯の統計が孤独感を測っていない以上、「孤独など増えていない」と数字を盾に言い切ることも、同じ誤読です。
夜の集合住宅の窓に戻ります。ひとつの窓の奥の一人が、望んでひとりでいるのか、望まずにひとりでいるのか。それは外からは見えません。見えないものを見えないと言うことは、冷淡ではありません。問いを問いのまま保つための、最低限の作法です。
孤独は悪か。この問いは、世帯の統計でも、十九世紀の警句でも、まだ閉じられていません。閉じられていない問いとして、ここに置いておきます。
この数字の読み方の注意
- 「生涯未婚率」は通称で、統計上は「50歳時の未婚割合」です。国立社会保障・人口問題研究所「人口統計資料集」の脚注によれば、45〜49歳と50〜54歳における未婚割合の平均値として国勢調査報告から算出され、2020年の値は不詳補完値に基づきます。50歳より後の初婚は反映されず、生涯を確定する数字ではありません。
- 本稿の系列はいずれも国勢調査の調査時点の確定値で、点と点のあいだの年の推計値を含みません。未婚割合はかつて十年おきの時点しかなく、図の線は補間ではありません。連続的な傾向としてではなく、時点間の比較として読むのが正確です。
- 単独世帯の割合は、世帯の家族類型の新分類区分で比較可能な1995年以降のみを扱いました。それ以前の時点との接続は行っていません。
- 1世帯当たり人員は一般世帯の値で、施設等の世帯を含みません。1960年の次の調査時点までの間には欠測があります。
- 最も重要な注意として、これらはいずれも世帯・婚姻という客観的状態の統計であり、孤独感という主観の統計ではありません。本稿の主題はこの区別そのものにありますが、同じ理由で「孤独感は増えていない」と読むこともできません。孤独感の水準や推移を語るには、別の調査を要します。
- 世帯構造の変化の背景には、都市化、高齢化、価値観の変化など複数の要因との関連が指摘されていますが、本稿のデータから因果を特定することはできません。