功利主義とは、行為や制度が正しいかどうかを、それがもたらす幸福——快楽が増えるか、苦痛が減るか——の大きさで判定する立場です。この原理を体系として定式化したのがベンサムで(『道徳および立法の諸原理序説』第1章)、それを受け継ぎつつ修正したのがミルです(『功利主義』第2章)。
定義だけなら、これで終わりです。ただ、これだけでは、この思想がなぜ生まれ、なぜいまも参照され続けるのかが見えてきません。功利主義が答えようとした問いは、こういうものでした。道徳の根拠を、神の命令でも、伝統でも、身分でもなく、誰にでも確かめられるものの上に置くことはできないか。
ベンサムは主著の冒頭で、自然は人類を苦痛と快楽という主権者の支配のもとに置いた、と述べています(大意、『道徳および立法の諸原理序説』第1章)。私たちが何かを「よい」と呼び、何かを「わるい」と呼ぶとき、その根っこには快と苦があります。それなら、道徳の判定もそこから出発すればいい。天上の規範を仰ぐのではなく、いま地上で現に感じられているものから始める。功利主義は、道徳に物差しを当てようとした試みでした。
そして書名からわかるとおり、ベンサムがこの原理を向けた先は、個人の処世訓ではありません。道徳と、立法です。よい法とは何か、正しい刑罰とは何か。それを権威ではなく、幸福が増えるか減るかで問い直すこと。功利主義は生まれたときから、社会の制度を測るための道具として構想されていました。
骨組みをなぞる
骨組み自体は、順を追えばシンプルです。図解の階層を、下から順にたどります。
出発点は、快と苦です。人間にとって価値の源はここにある、とベンサムは言い切ります(『道徳および立法の諸原理序説』第1章)。
次に、基準です。ある行為が正しいかどうかは、その行為が関係する人たちの幸福を増やすか減らすかで決まります。動機が美しいかどうかでも、規則を守ったかどうかでもなく、結果として幸福がどうなったか、です。
そして、範囲。実はここが要です。数えるのは、行為をした本人の幸福ではありません。その行為の影響が及ぶ、すべての人の幸福です。しかも、誰の快苦も同じ重みで数えます。偉い人の快が重くて、名もない人の苦が軽い、ということはありません。
最後に、判定です。関係者全員の幸福を集計して、それをいちばん大きくする行為や制度が正しい。「最大多数の最大幸福」としてベンサムに帰されてきた定式は、この判定の部分を指しています。
ミルはこの骨組みを受け継ぎながら、快楽に質の差を持ち込みました。功利主義は快楽に仕えるだけの卑俗な教えだ、という非難に応える文脈で、彼はこう書いています。満足した豚であるよりも、不満足な人間であるほうがよい、と(大意、『功利主義』第2章)。快の量だけでなく、快の種類を問う。両方の快を知っている人が選ぶほうが、より価値の高い快である——ミルの修正はそう要約できます(『功利主義』第2章)。集計するという発想はそのままに、数える中身を改めたわけです。
「功利的」という日常語との距離
功利主義と聞くと、損得勘定で動く生き方、自分の利益を優先する哲学——そんなイメージを持っていませんか。これが、功利主義について広まっている理解のなかで、いちばん根深いものだと思います。
この誤解には理由があります。日常語で「功利的な人」と言えば、まさにそういう人のことです。訳語の「功利」は、日本語のなかで長いあいだ損得の意味を帯びて使われてきました。おまけに、快楽を「計算する」という発想そのものが、なんとなく打算を連想させます。語感からすれば、自然な連想です。
でも骨組みに戻ると、向きが逆だとわかります。功利主義が集計するのは、自分の幸福ではありません。関係者全員の幸福です。そのなかで自分の幸福は、見知らぬ誰かの幸福と同じ重みしか持ちません。自分を特別扱いする根拠は、この体系のどこにも用意されていないのです。むしろ功利主義は、行為をする人に、ときに過大なほどの不偏性を要求する思想です。誰の快苦も等しく数えるという前提は、身分と特権が秩序の骨格だった時代には、静かに過激なものでした。
日常語の「功利的」と功利主義とのあいだにあるのは、計算の主語と範囲の違いです。前者は自分のために数えます。後者は全員のぶんを数えます。言葉は似ています。でも、中身は遠く離れています。
その「全体」には誰が入っているか
現代の意思決定の言葉には、功利主義の語彙が深く入り込んでいます。費用対効果、政策評価、全体最適。限られた予算や人員をどこに配るかを決めるとき、私たちは知らないうちに、幸福を集計するという発想を使っています。
骨組みを知ったうえでこうした場面を見ると、見え方が変わります。まず、集計の便利さです。全員の幸福を足し上げるという発想があるから、比べにくい選択肢を同じ物差しの上に載せて、決めることができます。ただ同時に、集計が覆い隠しうるものも見えてきます。総量をいちばん大きくする案が、特定の誰かの深い犠牲の上に成り立つことはありえます。合計が同じでも、内訳は同じではありません。功利主義への古典的な批判は、繰り返しこの点に向けられてきました。
だから、会議で「全体最適」という言葉が出たときに確かめることは、はっきりしています。その「全体」には誰が入っているのか。誰の幸福が数えられ、誰が数え落とされているのか。集計の外に立たされている人はいないか。功利主義は、答えを配ってくれる思想である前に、集計というふるまいそのものを点検させる思想です。何を、誰を、どの重みで数えるか。数えかたを決めることは、すでに答えを決めはじめることでもあります。この問いは、いまも開いたままです。