定義から入る
ペシミズムとは、この世界は「あり得たなかで最善のもの」ではなく、生はその根本において苦しみである、とする世界観です——十九世紀ドイツの哲学者ショーペンハウアーの思想は、そう解釈されてきました。日本語では「厭世主義」と訳されます。
この言葉を聞いたとき、まず押さえておきたいことが二つあります。第一に、ペシミズムは気分や性格の名前として始まった言葉ではない、ということ。第二に、ショーペンハウアーに帰される使い方が、この言葉を理解するうえでの標準的な軸になってきた、ということです。ここから先は、その軸に沿って進みます。
まずは言葉の来歴です。ペシミズムはラテン語の「最悪」に由来する言葉で、「最善」に由来するオプティミズム(楽観主義)の対語として位置づけられてきました。オプティミズムの側には、「この世界は神が選び得たかぎりで最善の世界だ」とする議論の伝統があります。ショーペンハウアーのペシミズムは、その正面からの反転として読まれてきました。つまりこの概念は、個人の気分の話として生まれたのではありません。「この世界はそもそも良くできているのか」を大真面目に議論してきた流れのなかにあります。
では、ショーペンハウアーのペシミズムは何に答えようとしたのか。標準的な解釈に従えば、問いはこう立てられます。「欲しいものを手に入れれば、人は幸福になれるのか」。そして「なれない」と答えたとき、その理由を本人の気の持ちようや運の巡りではなく、世界の仕組みそのものに求めた——この一点に概念の核心がある、と読まれてきました。
構造を言葉でなぞる
図解に示した循環の骨組みを、標準的な解釈に沿って、ひとつずつ言葉でなぞります。
土台にあるのは「意志」です。ここでいう意志は、個人の意志決定や意志の強さのことではありません。目的も理由もなく、ただ欲し続ける盲目的な力で、世界のあらゆる現象はその現れである——ショーペンハウアーの形而上学は、そう解釈されてきました。石が落ちるのも、植物が伸びるのも、人間が何かを欲しがるのも、同じひとつの力の別々の現れとして描かれている、と読まれてきました。人間の欲求は、この大きな力の一部にすぎません。
この土台の上で、人生は次の循環をたどるとされます。まず、欲する。欲するとは欠けていることで、欠乏は苦しみです。次に、得る。満たされる瞬間は確かに来ますが、長くは続きません。そして、飽きる。満たされた欲求のあとには退屈がやってきて、退屈もまた苦しみです。最後に、退屈から逃れたくて新しい欲求が生まれ、循環は最初に戻ります。
図式にすると、こうなります。欲する(欠乏の苦)→得る(短い充足)→飽きる(退屈の苦)→また欲する。矢印は一方向にしか進まず、どこにも出口が描かれていません。この出口のなさこそが、ペシミズムという名前にふさわしい部分です。
人生は欠乏の苦と退屈の苦のあいだを行き来する振り子である——ショーペンハウアーの人間観は、しばしばこの像で要約されてきました。大事なのは、この振り子に静止点がない、という主張です。充足は振り子の通過点であって、到達点ではありません。幸福が「続かないもの」として、構造の側から説明されている。ここに、このペシミズムの徹底ぶりがあります。
「ネガティブ思考」ではない
ここで、よくある理解をひとつ取り上げます。「どうせうまくいかないと考える癖」「悲観的な性格」、あるいは「ネガティブ思考」——ペシミズムの世間的なイメージは、だいたいこのあたりではないでしょうか。この理解には理由があります。日常語の「悲観」は、まさに個人の見通しや気質を指す言葉として定着しているからです。楽観と悲観の対を、性格の明るさ・暗さの軸に読み替えるのは、言葉の使い方としてはむしろ自然です。
ただ、ショーペンハウアーのペシミズムは、そこから二重にずれます。第一に、これは「私はうまくいかない気がする」という予感ではなく、「世界はこういう仕組みでできている」という診断として読まれてきました。個人の気質の話ではなく、世界の構造についての主張です。だから、性格の明るい人がこのペシミズムを受け入れても、理屈のうえでは少しも矛盾しません。逆に、性格が暗いというだけでは、この立場に立ったことにはなりません。
ちなみに、現代の心理学には、最悪の事態をあえて想定して準備することで成果を安定させる構えを指す用語もあります。ただ、あれは目標達成のための戦略であって、世界の構造についての主張ではありません。同じ「悲観」の字が入っていても、答えようとしている問いが違う。問いが違えば、概念は別物です。
第二に、この診断は「だから何をしても無駄だ」という投げやりにも、他人を見下ろす冷笑にも着地していない、と解釈されてきました。苦しみが生の基本条件なら、他者もまた同じ条件のもとにいます。そこから、他者の苦しみを自分のものとして感じる同情を倫理の基礎に据える議論が展開された、と読まれてきました。芸術をじっと観ることのうちに、欲し続ける意志からの一時的な解放を見る議論も、この哲学の重要な部分として受け止められてきました。ペシミズムは診断で、その先には処方の試みが続いている——ショーペンハウアーの哲学は、そう読まれてきました。暗い結論を言い放って終わる思想ではない、というのが標準的な理解です。
達成の翌週に見えるもの
現代の生活に、ひとつだけつないでみます。例えば、仕事で目標を達成したとします。翌週には、新しい目標が置かれます。数値をクリアすれば基準が上がり、昇進すれば次の目標が現れる。達成の高揚は思っていたより短くて、気づけば次の欠乏が始まっています。多くの職場では、この循環を「成長」と呼んでいます。買い物でも同じことが起きます。届いた箱を開けた瞬間に満足は頂点に達して、あとは静かに薄れていく。
ペシミズムの目でこの光景を眺めると、別のものが見えてきます。達成のたびに満足が逃げていくのは、努力が足りないからでも感謝が足りないからでもなく、もしかしたら欲求というものの構造かもしれない——そう考える余地が開くわけです。この見方は、目標を捨てろとも、頑張るなとも言いません。ただ、「満たされれば幸福になれる」という前提そのものを、一度検査台に載せます。検査したうえでどう生きるかは、もうこの概念の外側の話です。
充足を積み上げていく設計の先に、静止点はあるのでしょうか。ないとしたら、私たちは何を目当てにこの循環を回しているのか——十九世紀の診断は、答えではなくこの問いを、いまも開いたまま手渡してきます。