「上がらない三十年」への直答
日本の賃金は、この三十年ほど上がっていない——。なんとなくそう実感してはいるけれど、数字で確かめたことはない。そんな方が多いのではないでしょうか。まず答えから。厚生労働省「毎月勤労統計調査」が公表する実質賃金指数の最新値は、2025年で98.0です。系列の起点である1990年の値111.8を、はっきり下回っています。上がっていない、どころではありません。下がっています。方向についていえば、通説は正しいわけです。
一次データで推移を測る
折れ線を端からたどります。指数は1990年の111.8から九十年代半ばにかけて上がり続け、1996年に最高値116.5をつけました。バブル景気の真っ最中ではなく、崩壊から数年たったころです。意外に思えるかもしれませんが、賃金には雇用契約や賃金交渉の慣性があって、景気の山谷より遅れて頂点をつけることがあるとされています。
そこから、長い低下に入ります。急な崖はほとんどありません。小さな下げが積み重なり、世界金融危機の前後で一段下がり、二〇一〇年代半ばにもう一段下がりました。直近の数年は、2023年の最低値97.1を底に、いったん99.3まで戻し、最新値98.0へまた小さく下げる。そんな行ったり来たりのなかにあります。
起点と最新値の差は-13.8ポイント。率でいえば、三十五年でおよそ一割強の目減りです(最新値は起点の0.88倍)。ゆるやかですが、方向はずっと下を向いてきました。
最大の下げは、危機の年ではなかった
通説はこの下降を、バブル崩壊、金融危機、リーマン・ショックといった危機の連なりとして記憶しています。では、三十五年の記録のなかで、前年からの下げ幅がいちばん大きかった一年はいつだったのでしょうか。系列を見返すと、いちばん大きく振れているのは、どの危機の年でもありません。二〇一〇年代半ば、指数が105.1から102.3へ落ちた一年です。下げ幅はおよそ三ポイント。世界金融危機をまたいだ年の下げ(107.9から105.3へ)よりも大きく、この系列のなかで最大です。
この一年に何があったかというと、消費税率の引き上げと、円安を伴う物価上昇が重なった時期にあたります。実質賃金は、名目の給与を物価で割った値です。ですから、下がる道筋は二つあります。給与そのものが減るか、物価が給与より速く上がるか。この年の急落については、名目の賃上げが物価の伸びに追いつかなかったことが背景にあるとされています。「賃上げの機運」が報じられる年と、実質賃金がこの系列でいちばん大きく落ちる年が、同じ一年ということもありうるわけです。財布の中身が増えることと、財布の力が増すことは、別の測定なんですね。
危機の記憶で下降を説明していると、ここを見落としがちです。実質賃金の敵は、必ずしも不況の顔をして現れません。
この数字の読み方の注意
この指数は、基本給に残業代や賞与を含めた現金給与総額を、持家の帰属家賃を除く総合の消費者物価指数で割り引いたものです。同じ調査からは、消費者物価指数の総合で実質化した参考値も公表されていて、どの物価の物差しで割るかで数字は変わります。基準年も定期的に改定され、そのたびに過去へさかのぼって全期間の数値が置き換わるので、時期の違う資料と突き合わせると値が食い違うことがあります。対象は調査産業計・一定規模以上の事業所で、すべての働き手の給与をそのまま映すものではありません。
もうひとつ。この指数から「自分の賃金」を直接読み取ることはできません。折れ線が示すのは調査対象全体の平均の動きで、産業や雇用形態、個人の事情はならされています。自分の明細とこの折れ線とのあいだの距離こそ、それぞれが測るべき固有の数字だと思います。
最後に、問いをひとつ開いたまま置いておきます。持家の家賃を除いた物差しで測ると、家を持つ人と持たない人の実感は、同じ数字の上では交わらないかもしれません。賃金の「実質」とは、結局のところ何を買える力のことなのでしょうか。私たちはこの指数を、答えとしてではなく、いくつもありうる物差しのひとつとして置いておきます。物差しの選び方そのものが、すでにひとつの問いだからです。