序──測っていないのは幸福だけである

幸福は測れるのでしょうか。問いだけを見れば、答えは決まっているように思えます。測れるはずがない、と。けれども私たちの毎日は、すでに測定であふれています。腕時計は歩数と心拍と眠りの深さを記録し、電話は画面を見た時間を毎週知らせてきます。手帳には予定が分刻みで並び、空いた枠を見つけては、そこに何を入れるかを考える。測っていないのは、肝心の幸福だけです。

国もまた、生活を測っています。総務省統計局「社会生活基本調査」は、五年に一度、人々が一日をどう使っているかを調べる大規模な調査です。眠る、働く、食べる、そして「自由時間」。一日の長さは誰にとっても同じですから、時間は、誰にでも同じ目盛りで刻まれたものさしに見えます。所得や資産と違って、時間だけは全員に等しく一日ぶん配られます。だからこそ生活時間の統計は、幸福というつかみどころのない主題に近づくための、数少ない手がかりとされてきました。

自由時間が多ければ幸福なのか。よく眠れていれば幸福なのか。学ぶ時間は幸福に数えてよいのか。この素朴な問いの後ろには、二百年来の哲学の論争があります。幸福は計算できると言い切った思想家がいました。幸福は量ではなく活動だと述べた哲学者がいました。本稿では、この二つの立場のあいだに、生活時間の一次データを置いてみます。

壱──計算する幸福、生きられる幸福

幸福は計算できる。そう言い切ったのは、十八世紀イギリスの哲学者ジェレミー・ベンサムです。ベンサムは『道徳および立法の諸原理序説』第1章で、人間は快楽と苦痛という二人の主権者に支配されていると宣言し、行為や制度の正しさを、それが関係者全員にもたらす幸福──快の増加と苦の減少──の大きさで判定する原理を立てました。これが功利性の原理です。道徳と立法の基礎に測定を据えるという、思想史でもまれに見る大胆な企てでした。

この立場が徹底しているのは、幸福を計算の対象として扱った点です。ベンサムは快楽の価値を見積もるための観点を並べています。強さ、持続、確実さ、遠近、多産性、純粋性、及ぶ範囲。快楽は神秘ではなく、次元をもった量として扱える──この確信が功利主義の出発点にあります。そして大事なのは、この計算が「誰の」幸福かを特別扱いしないことです。功利主義は行為者自身を優遇しません。誰の幸福も同じ重みで数える。この不偏性の要求こそが、この思想の核心です。日常語の「功利的」──自分の損得勘定で動くこと──と同じものだと考えるのは、いちばんよくある誤解と言ってよいでしょう。この点は本連載の「功利主義とは何か」で詳しく扱いました。

もっとも、ベンサムの計算はそのままでは粗すぎました。ジョン・スチュアート・ミルは『功利主義』第2章で、快楽には量だけでなく質の違いがあると修正を加えています。両方の快楽を知っている人が一方を選ぶなら、その快楽は質において高い──ミルはそう論じ、計算に「質」という測りにくい次元を持ち込みました。この修正は功利主義を人間的にしましたが、同時に、計算の単純さという利点を弱めもしました。質を認めた瞬間、幸福は一本の目盛りに乗らなくなるからです。さらに、総量の最大化は分配の不平等や少数者の犠牲を正当化しうるという古典的な批判があり、権利論・義務論からの反論は現在も続いています。

一方で、はるか昔に、幸福を量ではなく活動として語った哲学者がいます。アリストテレスです。『ニコマコス倫理学』で幸福(エウダイモニア)は、快の総量ではなく、徳──性格の卓越性──に基づく魂の活動として描かれます。そして第2巻で、その徳は、過剰と不足という二つの悪徳のあいだの「中間」として定められます。いわゆる中庸です。

気をつけたいのは、この中間が「足して二で割った真ん中」ではないことです。アリストテレス自身が、中間は算術的な中点ではないとはっきり述べています。中間は人ごと、状況ごとに相対的に決まり、実践知によって見つけ出されるものです。運動選手にとっての適量と病人にとっての適量が違うように、適切と呼べるふるまいの中間は、状況ごと、人ごとに違う場所にあります。中庸は無難な妥協のすすめではありません。この誤解は「中庸の意味」で検討しました。もうひとつ付け加えると、それ自体が悪い行為や感情──アリストテレスが挙げる例では姦通や窃盗──には中間が存在せず、この規定の適用範囲は限られると本人が明記しています。

整理するとこうなります。功利主義は、幸福を計算できる量とみなし、測定を道徳の基礎に据えました。アリストテレスは、幸福を活動とみなし、その良し悪しを量ではなく適切さ──各人に相対的な中間──に求めました。一方は目盛りを信じ、もう一方は目盛りの外に基準を置いた。この二つの立場のあいだに現代日本の生活時間統計を置くと、何が見えるでしょうか。

弐──三つの時点、三つの系列

素材は総務省統計局「社会生活基本調査」です。五年に一度、十歳以上の人々の生活時間の使い方を調べる調査で、ここでは週全体の「総平均時間」──その行動をした人もしなかった人も含めた全員の平均──を使います。単位は一日あたりの分です。手元にあるのは三つの調査時点、つまり2011年、2016年、2021年の値です。三点しかない以上、ここから言えるのは長期の「傾向」ではなく、時点と時点の比較です。この限定は本稿全体にかかります。

まず自由時間──統計上の表章では三次活動(再掲)──から見ます。

FIG.13次活動(自由時間)の総平均時間(週全体・10歳以上・全国)単位:
出典: 総務省統計局「社会生活基本調査」(2011–2021)

2011年に387分だった自由時間の総平均は、2016年に382分、2021年に376分となりました。三時点を並べると値は下がり続けていて、最小値の376分は最新の調査時点にあります。最古時点から最新時点への変化量は-11分です。

注目したいのは最新時点の状況です。最新の調査は、新型コロナウイルス感染症をめぐる緊急事態宣言などが解除された直後に行われました。在宅勤務や外出自粛といった「新しい生活様式」が生活時間の配分を変えたことは、調査の結果の概要でも指摘されています。在宅の時間が増えたとみられるこの時期に、自由時間の目盛りはむしろ下を向きました。この逆説は「1日の自由時間の平均」で立ち入って論じています。

次に睡眠を見ます。

FIG.2睡眠の総平均時間(週全体・10歳以上・全国)単位:
出典: 総務省統計局「社会生活基本調査」(2011–2021)

睡眠の総平均時間は、2011年の462分から、2016年に最小値の460分をつけ、2021年には最大値の474分に転じました。時間に直せば、およそ八時間弱です。「眠らない日本人」という通説を測りなおした既報でも触れたとおり、最新時点の増加は感染症下の生活の変化と重なっていて、これを平時の姿と読むには留保が要ります。増えたという事実と、増えたことの意味は、別々に扱わなければなりません。

三つ目は、学習・自己啓発・訓練(学業以外)です。

FIG.3学習・自己啓発・訓練(学業以外)の総平均時間(週全体・10歳以上・全国)単位:
出典: 総務省統計局「社会生活基本調査」(2011–2021)

この系列の総平均は、2011年の12分から2016年に13分となり、最新時点も13分です。最古時点から最新時点への変化は、1分の増加にとどまります。念のため強調しておくと、この値は十歳以上の全員──学習をまったくしなかった人も含みます──の平均で、「社会人」に限った数値ではありません。定義のうえでも、職場研修や学業として行うものは除かれ、クラブ活動や部活動は含まれます。総平均という測り方は、少数の熱心な学習者と大多数の非学習者をならしてしまいます。この平均の読み方は「社会人の勉強時間」で扱いました。

三つの系列を重ねると、この十年の時点間比較はこう要約できます。睡眠は増え、自由時間は減り、学習はわずかに増えた。一日の長さは変わりませんから、どこかが増えれば、どこかが減ります。生活時間統計は、その配分替えを分単位で記録しています。では、この記録のどこを見れば、幸福の増減が読めるのでしょうか。

参──持続だけの計算、平均ではない中間

ベンサムの快楽計算を思い出してください。彼が並べた諸次元──強さ、持続、確実さ、遠近、多産性、純粋性、及ぶ範囲──のうち、生活時間統計が測っているのはどれか。答えははっきりしています。「持続」だけです。何分眠ったか、何分自由だったか。統計は行動の長さを数えますが、その行動がどれほど強い快をもたらしたか、どれほど確実に、どれほど純粋に快だったかは、調査票のどこにも書かれません。功利主義が求める計算のうち、統計が実装できたのは一次元だけです。

それでも、持続は無意味な次元ではありません。ベンサム自身、持続を快楽の価値を左右する基本要素に数えています。同じ質の快なら、長く続くほうが価値が大きい──この直観は健全です。自由時間の変化量が-11分だったという記録は、他の条件が等しければ、快の持続が削られた可能性を示します。功利主義の計算では、これは負の項として数えられうるものです。

ただ、「他の条件が等しければ」という留保が、ここでは重くのしかかります。先に見たとおり、最新の調査時点では、在宅の時間が増えたとみられる状況で、自由時間の値はむしろ小さくなりました。家にいることと自由であることは、同じではありません。家にいる時間が仕事と家事に吸い取られれば、三次活動に数えられる時間は残りません。逆に睡眠は増えましたが、それは行動の選択肢が制限された時期の増加です。快として選び取られた眠りなのか、他にすることがなかった結果なのか。時間の長さは、その二つを区別しません。同じ474分でも、満ち足りた眠りと、外出をあきらめた末の眠りとでは、ベンサムの言う強さも純粋性も違うはずです。持続の目盛りは、その差を映しません。

ここでアリストテレスに戻ります。幸福は状態ではなく活動である──この規定を生活時間統計に当てると、統計の限界がもう一段はっきりします。自由時間という枠は、幸福の条件ではありえても、幸福そのものではありません。枠の中で何がなされたか、それが徳に基づく活動だったかどうかを、分の単位は語りません。三次活動にはテレビも交際も趣味も含まれますが、アリストテレスの観点からは、同じ一分がまったく違う価値をもちえます。時間の量が同じでも、活動の質が違えば幸福は違う──ミルが快楽に質を持ち込んだとき、彼は期せずして、この古い直観に近づいていたのかもしれません。

さらに、中庸の規定は、統計の「平均」と並べて読むと示唆的です。総平均は、全員の時間を足して頭数で割った値です。一方、中庸の中間は算術的な中点ではなく、人ごと、状況ごとに相対的に決まります。つまり、平均は中庸ではありません。自由時間の総平均が376分だからといって、誰かにとっての適切な自由時間が376分だということにはなりません。ある人には多すぎ、ある人には足りない、ということがありえます。アリストテレスの枠組みで問うべきは「平均からのずれ」ではなく「その人にとっての中間からのずれ」で、後者は全国平均の表からは原理的に読み取れません。

学習の系列は、この点をよく示しています。総平均13分という値は、全員が毎日わずかに学んでいる姿ではなく、学ぶ人と学ばない人の分布をならした結果と読むのが自然です。功利主義の計算なら、学習の快と苦を全員分足し合わせればよい。けれども中庸の観点では、一人ひとりが自分の状況に照らして適切な量を学んでいるかどうかが問題で、その問いに総平均は答えられません。

では、功利主義が敗れて、アリストテレスが勝ったのでしょうか。そう単純ではありません。功利主義の強みは、まさに計算を要求する点にあります。誰の幸福も等しく数えるという不偏性は、測定なしには実装できません。生活時間統計が三時点の比較しか許さない粗い道具だとしても、全国の、あらゆる立場の人々の時間を同じ方法で数えたという事実は、不偏性の要求への部分的な応答です。アリストテレスの「各人に相対的な中間」は、個人の実践には深い指針を与えますが、社会全体の制度設計に使おうとした途端、誰の実践知を基準にするのかという難問にぶつかります。目盛りを信じる思想は粗くなり、目盛りの外に基準を置く思想は共有可能性を失いやすい。このずれは、どちらかを勝たせて解消するものではなく、ずれのまま保っておく価値があります。

私たちの見立てはこうです。生活時間統計は、幸福を測ってはいません。測っているのは、幸福が営まれるための時間的な条件、ベンサムの語彙で言えば持続の次元だけです。しかし、その一次元の記録が、在宅と自由の乖離や、選ばれた眠りと余儀なくされた眠りの区別といった、幸福をめぐる新しい問いを立てる手がかりになっています。測定は答えを与えませんが、問いの精度を上げます。

結──目盛りの手前で

幸福は測れるのか。三つの系列をたどったいま、この問いは最初とは少し違う場所に立っています。測れるのは時間で、時間は、ベンサムが数え上げた幸福の諸次元のうち、持続という一つに対応するにすぎません。だから「測れない」と答えて済ませることもできます。けれどもそれでは、測定が立てた問いまで捨てることになります。

序で触れたとおり、私たちはすでに自分を測っています。歩数や心拍、画面を見た時間、眠りの深さを、機械は毎日記録しています。これらの記録も、生活時間統計と同じく持続の記録です。記録そのものは幸福を告げません。しかし、アリストテレスの言う各人に相対的な中間を実践知によって見つけ出そうとするとき、自分の時間がいまどこに配分されているかを知ることは、その探索の素材になります。中庸は測定を拒みません。測定の結果を、自分の状況に照らして解釈することを求めるだけです。

一方、功利主義の不偏性は、別の方向から測定を擁護します。誰の幸福も等しく数えよという要求は、自分の時間だけでなく、他人の時間にも同じ重みを認めよという要求でもあります。全国の生活時間を同じ方法で数えた統計は、その要求への、不完全ではあっても現実の応答です。自由時間の最小値が最新の調査時点にあるという事実は、幸福が減ったことの証明ではありません。しかし、誰かの自由が削られていないかを問うための、共有できる出発点ではあります。

自由時間が長ければ幸福なのか。眠りが長ければ満ち足りているのか。目盛りは、これらの問いに答えません。答えないと承知したうえで、それでも目盛りを読むこと。数字の背後にある問いを見ようとすること。幸福をめぐる思考は、そこから始めるほかありません。測れないものの輪郭は、測れるものを測り尽くした先にしか現れてきません。そこから先、自分の中間を探す仕事は、統計ではなく、一人ひとりに残されています。

この数字の読み方の注意

  • 本稿の三系列はいずれも総務省統計局「社会生活基本調査」による五年周期の調査で、扱ったのは三つの調査時点だけです。したがって本稿の記述はすべて時点間の比較で、長期の傾向を確定するものではありません。
  • 最新の調査時点は、新型コロナウイルス感染症に係る緊急事態宣言・まん延防止等重点措置が全地域で解除された直後にあたります。行動制限や「新しい生活様式」の影響で、前回時点に比べ生活時間の配分が変化していたことが調査の結果の概要で指摘されており、最新値を平時の水準として読むことはできません。
  • 本調査は途中の調査年から、詳細な結果を得るために二種類の調査票を用いる方式に変わっています。調査年間の比較にあたっては、この接続性に注意が必要です。
  • 「総平均時間」は、その行動をしなかった人も含めた全員の平均です。とくに学習・自己啓発・訓練(学業以外)の値は十歳以上全体のもので、社会人に限った数値ではありません。定義上、職場研修や学業(授業・予習・復習)は除かれ、クラブ活動・部活動は含まれます。
  • 単位は週全体でならした一日あたりの分で、平日と休日の差、年齢層や就業状態による差、個人差はこの平均には表れません。