序 「やりがい」の時代に

働き方をめぐる言葉のなかで、「自己実現」ほど広く行き渡ったものはあまりありません。求人広告は仕事を通じた成長を約束し、面接では志望動機に自己実現の物語が期待されます。働くことは生活の糧を得る手段であると同時に、自分が何者であるかを形にする営みでもある。そうした前提が、いつのまにか共有されています。

ただ、この前提はどれほど確かなのでしょうか。働く時間は昔より短くなったと言われます。休みも取りやすくなったと言われます。その一方で、給料が増えた実感がないという声は根強くあります。労働をめぐるいくつもの「良くなった」と「良くなっていない」が、同じ社会のなかに並んでいるわけです。

この記事では、厚生労働省「毎月勤労統計調査」の実質賃金指数と総実労働時間、厚生労働省「就労条件総合調査」の年次有給休暇取得率という三つの系列を並べ、そこにマルクスの「疎外」という概念を重ねます。疎外論は、労働は本来自己実現の営みであるはずだという理想と、現実の労働はそこから引き離されているという診断とを、最も早い時期に言葉にした思想のひとつです。

統計は労働の条件を測ります。哲学は労働の意味を問います。同じ対象を見ているようで、測っているものが違う。その違いを承知のうえで、突き合わせてみます。働くことは自己実現か。数字だけでも、思想だけでも、この問いに答えは出ません。

壱 疎外——労働が自分のものでなくなるという診断

マルクスは『経済学・哲学草稿』第1草稿で、「疎外された労働」という概念を提示しました。生前には公刊されなかった若い日の草稿ですが、没後に発見・刊行されてからは、労働を考えるための基本文献のひとつになっています。疎外とは、本来は自分のものであるはずのものから引き離されてしまう事態を指します。マルクスはこれを四つの面に分けて論じました。

第一は、生産物からの疎外です。労働者が作り出したものは、労働者自身のものになりません。生産物は商品として市場に出て行き、作った本人とは無関係な力として立ち現れます。作れば作るほど、労働者の手もとに残るものと、生み出された富との距離は開いていく。労働の成果が労働者に還らないという事態が、疎外の最初の面です。

第二は、労働行為そのものからの疎外です。労働が自発的な活動ではなく、外から強いられた活動になります。マルクスの描写によれば、疎外された労働のなかで人は自分を肯定するのではなく否定し、心身をすり減らし、労働の外にいるときにはじめて自分を取り戻したと感じます。働く時間が苦役であり、働いていない時間だけが自分の時間である。この分裂こそが第二の疎外の内実です。

第三は、類的存在からの疎外です。マルクスは、自然に働きかけて世界を形づくる活動、つまり労働そのものに、人間という類の本質を見ました。労働は本来、人間が自分の力を対象のなかに実現し、作ったものを通じて自分自身を確認する営みです。現代の語彙でいえば、自己実現に最も近い活動として労働は構想されています。疎外された労働は、この本質的な活動を、ただ生き延びるための手段へと引き下げます。目的であるはずのものが手段になる。この転倒が第三の疎外です。

第四は、他の人間からの疎外です。生産物も労働も自分のものでないなら、それらは誰かほかの人間のものになっています。疎外は個人の内面の問題にとどまらず、人と人との関係の歪みとして現れます。

ここで、広く流通している誤解をひとつ退けておかなければなりません。疎外を「疎外感」、つまり職場での孤独感や居場所のなさと同じものと見る読み方です。マルクスの疎外は主観的な感情の記述ではなく、生産関係の構造の記述です。本人が仕事に満足を感じていても、構造としての疎外は成立しえますし、逆に、構造のうえでは自分の労働を保持していても孤独を感じることはあります。感情と構造を混同すると、疎外論はただの気分の話になってしまいます。この区別は、あとで統計と突き合わせるときに決定的に重要になります。概念の詳しい説明は、解説記事「疎外とは何か マルクスが立てた問い」に譲ります。

射程の限界も記しておきます。疎外は初期草稿の概念で、後期の『資本論』では前面に出ません。物象化という概念への展開と読むかどうかは、解釈が分かれています。また「類的存在」という人間本質論を前提とする点には、人間に固定した本質を想定してよいのかという批判が向けられてきました。労働こそ人間の本質だという想定そのものが、ひとつの強い前提なのです。

それでも、疎外論が立てた問いの形は古びていません。労働は自己実現でありうるか。ありうるとすれば、何がそれを妨げているのか。妨げているのは個人の心がけではなく、構造ではないのか。この問いの形を携えて、統計に向かいます。

弐 三つの系列——時間は減り、休みは増え、賃金は伸びない

まず実質賃金指数から見ます。厚生労働省「毎月勤労統計調査」が公表するこの指数は、名目の現金給与総額を消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)で実質化したもので、賃金の購買力の推移を示します。

FIG.1実質賃金指数(現金給与総額・調査産業計・事業所規模5人以上)単位: 指数
出典: 厚生労働省「毎月勤労統計調査」(1990–2025)

系列の始点である1990年の値は111.8です。指数は1996年に116.5の頂点をつけたあと、長い低下の局面に入ります。国内の金融機関の破綻が相次いだ時期や世界金融危機の時期に段が刻まれ、2013年から2014年にかけての下げ(105.1から102.3へ)は、単年の変化として全期間で最大です。この年の消費税率引き上げに伴う物価上昇が背景にあるとされています。底は2023年の97.1で、輸入物価の上昇が続いた時期にあたります。最新の2025年は98.0で、基準時である2020年の水準(100.0)をまだ下回っています。始点から最新までの変化は-13.8ポイント、倍率にして0.88倍。三十余年をかけて、賃金の購買力は下がりました。この系列の長期推移は「実質賃金の推移──30年余りの一次データをよむ」で詳しく扱っています。

次に総実労働時間です。同じ厚生労働省「毎月勤労統計調査」の系列で、調査産業計・就業形態計の月間総実労働時間(一定規模以上の事業所が対象)を示します。

FIG.2総実労働時間(調査産業計・事業所規模5人以上・月間)単位: 時間
出典: 厚生労働省「毎月勤労統計調査」(1990–2025)

始点の1990年、月間の総実労働時間は172.0時間で、これが全期間の最大値でもあります。以後、系列はほぼ一貫して下がっていきます。1992年から1993年にかけての減少(165.2時間から160.0時間へ)は単年の変化として最大で、法定労働時間の段階的な短縮や週休制の拡充といった時短の制度化が進んだ時期にあたります。世界金融危機の時期にも段が刻まれ、感染症拡大の2020年に135.1時間の最小値をつけました。最新の2025年は135.1時間で、最小値と同じ水準に並びます。始点からの変化は-36.9時間、倍率にして0.79倍です。

ただし、この系列には重要な但し書きがあります。就業形態計の平均にはパートタイム労働者が含まれるので、パート比率が上がると、ひとりひとりの働き方が変わらなくても平均は下がります。労働時間の減少のどこまでが「働き方の変化」で、どこまでが「働き手の構成の変化」なのか。この系列だけでは切り分けられません。この論点は「平均労働時間の推移 「高止まり」説を測りなおす」でも扱いました。

最後に年次有給休暇の取得率です。厚生労働省「就労条件総合調査」による、労働者ひとり平均の取得率(取得日数計を付与日数計で割ったもの)を追います。

FIG.3年次有給休暇の取得率(労働者1人平均・企業規模計・調査産業計)単位: %
出典: 厚生労働省「就労条件総合調査」(2015–2024)

系列の始点である2015年の取得率は48.7%。与えられた有給のおよそ半分が、使われずに残っていた計算になります。そこから取得率は一貫して上がり、最新の2024年には66.9%と、全期間の最高値をつけました。変化幅は18.2ポイント、倍率にして1.37倍です。単年で最大の上昇は2018年から2019年にかけて(52.4%から56.3%へ)で、感染症の拡大より前のことです。使用者に対し、付与した有給休暇の一部を労働者に確実に取得させることを義務づけた法改正が、この時期に施行されたことが背景にあるとされています。跳ねの位置については「有給取得率の推移 最大の跳ねは感染症の前にあった」が詳しく扱っています。

なお、この統計は調査年と対象年がずれます。調査で報告されるのは前年(又は前会計年度)の取得状況で、この記事の年次はすべて対象年で揃えています。

三つの系列を並べると、こうなります。労働時間は減った。有給の取得率は上がった。実質賃金は伸びず、むしろ下がった。労働の条件を測る物差しが、それぞれ別の向きを指しています。

参 交差——条件は測れる、意味は測れない

疎外論の四つの面に、三つの系列をそれぞれ当ててみます。先に言っておくと、この作業はきれいには嵌まりません。嵌まらないこと自体が、この記事の観測結果です。

第一の面、生産物からの疎外に最も近い位置にあるのは実質賃金です。労働者が生み出した価値のうち、どれだけが労働者に還ってくるか。その還流の目安として、賃金の購買力は読めます。三十余年で指数が下がったという事実は、働いて生み出したものと、働いた本人の手もとに残るものとの距離が、少なくとも縮まってはいないことを示唆します。ただし、ここで立ち止まる必要があります。実質賃金指数の低下は、それだけでは「分配の悪化」を意味しません。物価の動き、働き手の構成の変化、労働時間そのものの減少。指数を動かす要因は複数あり、この系列が測っているのは労働者ひとりあたりの給与総額の購買力であって、生み出された価値に対する取り分を直接測ってはいません。数字は疎外の証拠ではなく、疎外という概念が照らそうとした場所の近くを通る観測値です。

第二の面、労働行為からの疎外はどうか。労働時間の減少と有給取得率の上昇は、一見するとこの疎外の緩和を示すように見えます。強いられた労働の量が減り、労働から離れる権利の行使が増えたのですから。しかし、マルクスの診断を思い出したいところです。第二の疎外の核心は、労働の量ではなく質にあります。労働が自発的な活動なのか、強いられた活動なのか。短くなった労働が自発的になったかどうかを、時間の統計は語りません。むしろ、疎外論の描写——人は労働の外にいるときにはじめて自分を取り戻したと感じる——を裏返すと、休暇取得の着実な上昇は、正反対の読みにも開かれてしまいます。労働からの自由が広がった、とも読めますし、自分の時間は労働の外にしかないという感覚が制度に承認された、とも読めます。統計は、どちらの読みも排除しません。

しかも、有給取得率の跳ねが法改正の施行期と重なることには、それ自体考えるべきものがあります。取得率上昇の少なくとも一部は、労働者が自発的に休むようになったことではなく、使用者が休ませる義務を負ったことの反映だとされています。義務によって実現した休息も、休息であることに変わりはありません。ただ、それを「自己実現」の語彙で語れるかどうかは、別の問題です。

第三の面、類的存在からの疎外は、三つの系列のどれにも写りません。労働が目的なのか手段なのか、人が労働のなかで自分の力を実現しているのか。これらは、賃金でも時間でも取得率でも測れません。ここに、思想と統計の最も深いズレがあります。疎外論が最も重要だと考えた第三の面が、公的統計の観測範囲の外にある。これは統計の欠陥ではありません。統計は測れるものを測ります。ただ、「測れるものが改善すれば労働は良くなった」と結論する習慣には、測れないものを存在しないことにしてしまう危うさが混じります。

第四の面、他の人間からの疎外も同じく、この三系列からは読めません。

ここで、三つの系列それぞれに規律をかけておきます。労働時間の減少を、それだけで「良くなった」と言うことはできません。減少には働き手の構成の変化が混ざっていますし、時間の減少が所得の減少と表裏である可能性を、賃金の系列が示唆しているからです。有給取得率の上昇を、それだけで「良くなった」と言うこともできません。上昇の一部は義務化の反映ですし、取得の中身——まとまった休暇なのか、細切れの消化なのか——をこの数字は区別しません。実質賃金の低下を「悪くなった」とだけ言うことも、実は難しい。指数は平均であり、働く人の構成が変われば、個々の賃金が変わらなくても動くからです。三つを並べてはじめて、単独では見えない食い違いの形が現れます。

こうして突き合わせると、構図がはっきりします。労働の条件——時間と休暇——を測る系列は改善の向きを指し、労働の対価の購買力を測る系列は低下の向きを指す。そして労働の意味を測る系列は、存在しない。働くことは自己実現かという問いに対して、データが言えるのは「働く時間は減り、休む権利の行使は増え、賃金の購買力は伸びていない」までです。そこから先、この状態を疎外と呼ぶか、進歩と呼ぶか、その両方と呼ぶかは、データの外側の判断になります。

ひとつだけ、疎外論の側から現代に差し向けられる問いを書き留めておきます。マルクスが疎外を論じた時代、労働が自己実現だと約束する人はいませんでした。現代は逆です。仕事を通じた自己実現は、雇う側の語彙になりました。疎外論の枠組みで見ると、これは奇妙な事態です。労働が本当に自己実現の営みになったのなら、疎外は克服されたことになる。けれども実質賃金の系列は、生産物と労働者の距離が縮まったことを示していません。語彙が先に変わり、構造の指標は変わっていない。少なくとも、この三系列から見えるのはそういう対比です。もっとも、これをもって現代の労働は疎外されていると断定することも、この記事のデータからはできません。疎外は構造の概念であり、平均値の統計は構造そのものを写さないからです。

ズレは、ズレのまま置いておきます。思想は、統計が測っていないものを指差しています。統計は、思想が予言しなかった細部——条件の改善と対価の停滞の同時進行——を記録しています。どちらかを勝たせる必要はありません。

結 問いを現場に返す

働くことは自己実現か。この記事が並べた材料からは、少なくとも次のことが言えます。第一に、この問いの「自己実現」という言葉には、マルクスが類的存在と呼んだ理想が流れ込んでいます。労働のなかで自分の力を実現することが人間の本質だという想定です。第二に、その想定自体がひとつの立場です。労働の外——家族、趣味、学び、地域——に自分の中心を置く生き方を、疎外の帰結と見るか、本質論からの自由と見るかで、同じ数字の読み方は変わります。第三に、統計は条件を測りますが、意味を測りません。条件の系列がどう動いても、それぞれの労働が当人にとって目的なのか手段なのかは、平均値の外側にあります。

もうひとつ付け加えるなら、「自己実現」という言葉を口にするとき、それが誰の語彙なのかを確かめる習慣は持っていてよいはずです。自分の内側から出てきた言葉なのか、雇用や評価の文脈で外から与えられた言葉なのか。疎外論の要点は、労働の意味は個人の心がけの問題ではなく、関係の構造の問題だという点にありました。だとすれば、自己実現という言葉もまた、構造のなかで流通する言葉として点検されてよいことになります。

ですから、この問いは一般論としては閉じません。閉じるとすれば、個別の現場においてです。自分が作ったものはどこへ行き、誰のものになるのか。働いている時間は自分の時間なのか、それとも自分を取り戻すために早く終わってほしい時間なのか。マルクスの四つの疎外は、答えを与える装置ではなく、この種の問いを立てるための枠組みです。

賃金の購買力が伸びない三十余年のあいだに、休む権利の行使は着実に増え、働く時間は短くなりました。この組み合わせを後退と読むか、前進と読むか、あるいは労働の位置づけそのものが変わりつつある兆候と読むか。判断の材料は示しました。判断は、それぞれの働く現場に返したいと思います。

この数字の読み方の注意

  • 実質賃金指数は厚生労働省「毎月勤労統計調査」の現金給与総額を、消費者物価指数(持家の帰属家賃を除く総合)で実質化したものです。消費者物価指数の総合で実質化した参考値も別途公表されており、どの系列を選ぶかで水準は変わります。基準年は定期的に改定され、改定のたびに全期間が新基準で計算し直されるため、過去に公表された値と一致しないことがあります。
  • 総実労働時間は調査産業計・就業形態計の月間値で、パートタイム労働者を含みます。パート比率の上昇は、ひとりひとりの働き方が変わらなくても平均を押し下げるため、減少のすべてを個々の労働の短縮と読むことはできません。
  • 年次有給休暇の取得率は厚生労働省「就労条件総合調査」によるもので、調査年と対象年がずれます。この記事の年次は、すべて取得状況の対象年で表記しました。また労働者ひとり平均の取得率(取得日数計/付与日数計)であり、企業平均の取得率ではありません。
  • 三つの系列は出典・調査対象・定義が異なり、相互を単純な因果で結ぶことはできません。この記事が行った疎外の四つの面との対応づけは、あくまで解釈であって、データそのものの主張ではありません。
  • いずれの系列も平均値で、産業・企業規模・雇用形態による分布の違いを均しています。平均の動きと個別の経験は、別のものです。